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「家賀城跡」

家賀城跡

家賀城跡

・『児宮神社』の上方には家賀城跡の石碑と森が残されている。『吉良(きら)御所(ごしょ)平(たいら)忌部神社文書』には、「天日(あめのひ)鷲(わしの)命(みこと)の正統の子孫、代々忌部神社の宮司である麻殖氏は、神代より起こった。家賀城は、忌部の長官・大祭主である忌部麻殖氏の末裔・麻殖因幡守(おえいなばのかみ)持光(もちみつ)の居城であった。

その時代、長宗(ちょうそ)我部元(かべもと)親(ちか)によって、城はことごとく兵火にかかり、城跡は判然と残りこの所の地名城跡と云う。」とある。『貞光町史』によると、家賀城主・麻殖因幡守持光は、天文21年(1552)に岩倉の城主・三好山城守康長の城攻めに防戦したが、討ち死にしたと書かれている。